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日々あったことの生活記録。ただし虚実混在。


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よしもとばななの、普通のテンポの良い語り口調がとても好きだ。
よしもとばなな、とひらがな表記になってから、あまり作品を読んでいなかったのだけど、
表紙に惹かれて、図書館でこの本を手に取った。
簡単に感想と、引用を。

『幽霊の家』
静かで優しい短編だった。
幽霊、という言葉に想起される怨恨をすべて取り払い、
淡々と日常を続けていく、過去の一部の映像という感じだった。
かつて生きていた人たちの歴史というにはあまりにも淡々とした≪生活≫の残像。
それが幸せの象徴のようで温かい。

『おかあさーん!』
変なタイトルだが、これがすべてなのだった。
『幽霊の家』と同じような幸福な平凡な生活が、不慮の事故から来る体調不良で失われてしまい、主人公は、同じように失われてしまった自分の「過去の幸福な平凡な生活」の幻影を見る。
途切れていたように思われた幻の生活が、ほんのささいな偶然によってそうなってしまっただけで、今、失われていても、確かに存在していた自分の歴史として、再生する流れが美しい。

 この世の中に、あの会いかたで出会ってしまったがゆえに、私とその人たちはどうやってもうまくいかなかった。
 でもどこか遠くの、深い深い世界で、きっときれいな水辺のところで、私たちはほほえみあい、ただ優しくしあい、いい時間を過ごしているに違いない、そういうふうに思うのだ。(p.127)


『あったかくなんかない』
天使のように、そこにいるだけで安心する男の子と、その彼が一番幸せだったほんのちょっとの時間の記憶が、きらきらと今の人生を照らす、そんな話だった。
男の子の生のふしだらさも、死も飲み込んで連綿と続いていく一族を、遠くから眺めている感じが良かった。

『ともちゃんの幸せ』
父親が若い女と逃げ、母親は病死し、幼馴染の男の子に犯され、ひとりぼっちで、でもじっと耐えて、達観しながら強く生きてきたともちゃんと、その職場でひっそりと恋が展開しそうな話。
でも、展開するのかと思いきや、不思議なラストに突入する。
彼女がなぜ、さみしさや悲しさで胸を振るわせながら、強く生きてこれたのかを、
ひっそりと知っている存在の独白で終わる。

『デッドエンドの思い出』
よしもとばななが出産を控え、これを書けてよかったと小説家冥利につきると言い切った作品。
婚約者に裏切られ、傷心のまま「袋小路」というバーに居候し、
そこで父親に監禁され、栄養失調で発見されたという、飄々として自由な西山くんと過ごす日々のお話し。

出来事にはいろんな側面があり、それを持っている人はいいなぁと思う。
いい意味で、一側面から解放されている。
西山くんは父親を憎んでいないし、世間の過剰な反応も知っている。
そして、主人公は傷心ながら、貸したお金が返ってこない、というかなりリアルな側面について、失恋というセンシティブな状況なのに、と思案することを戸惑っている。
その発想が面白い。お金は大事だ。終わってしまった恋をなぞるとき、でも、どうしてもお金問題というのは黒々とした点を残してしまう。それに戸惑う主人公ミミがよかった。

 今ならわかる。最低の設定の中で、その時私は最高の幸せの中にいたんだということが。
 あの日の、あの時間を箱にいめて、一生の宝物にできるくらいに。その時の設定や状況とは全く関係なく、無慈悲なくらいに無関係に、幸せというものは急に訪れる。どんな状況にあろうと、誰といようと。
 ただ、予測することだけができないのだ。(p.178)


「そうだよ、これで外に出て行こうなんて思ったら、それは傲慢ってものだよ。世の中には、人それぞれの数だけどん底の限界があるもん。俺や君の不幸なんて、比べ物にならないものがこの世にはたくさんあるし、そんなの味わったら俺たちなんてぺしゃんこになって、すぐに死んでしまう。けっこう甘くて幸せなところにいるんだから。でもそれは恥ずかしいことじゃないから」(p.203)


 家族とか、仕事とか、友達だとか、婚約者とかなんとかいうものは、自分に眠るそうした恐ろしいほうの色彩から自分を守るためにはりめぐらされた蜘蛛の巣のようなものなんだな、と思った。そのネットがたくさんあるほど、下に落ちなくてすむし、うまくすれば下があることなんて気づかないで一生を終えることだってできる。(p.211)


「俺にはわかるんだ。ああいう人って、ものの見方がすごくパターン化しているんだよ。あのね、ずっと家の中にいたり、同じ場所にいるからって、同じような生活をしていて、一見落ち着いて見えるからって、心まで狭く閉じ込められていたり静かで単純だと思うのは、すっごく貧しい考え方なんだよ。でも、たいていみんなそういうふうに考えるんだよ。心の中は、どこまでも広がっていけるってことがあるのに。人の心の中にどれだけの宝が眠っているか、想像しようとすらしない人たちって、たくさんいるんだ」(p.222)


最後の西山君の言葉を引いて、私は大学時代のゼミの知人を思い出した。
おとなしそうな子だった。実際、笑い声も、小さな鈴が鳴るような声だった。
私とまったく分野の違う研究だったが、堅実で丁寧な研究をしていた。
一言で言って地味な、とてもとても優しい、イマドキの、当たり障りのない学生だと思っていた。

彼女が、自分の愛読書で「『海潮音』が好きなんです」と熱く詩の話をしたとき、
私は、頭がガンッと殴られるような思いがした。
ミーハーで、インテリに憧れる私は、その詩集の名を知っていたし、もちろん読んでいた。
でも、そこに流れる妙味を味わえずにいた。
あれを、好きだと言い切っている彼女の、優しそうな頬に赤みがさすのを、私は茫然と見ていた。
この人の心の中には、あの詩を味わえる深くて美しい海があるのだ。
そのことがたまらずうらやましく、
そしてそのことを見抜けなかった自分の浅はかな偏見に打ちのめされた。


そんなことを思い出した。

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「待つ」ということ (角川選書)「待つ」ということ (角川選書)
鷲田 清一

角川学芸出版 2006-09
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「待つ」という行為の本質をさぐろうとした著作である。
 待つというのは、意外にもかなり複雑で、どろどろしている。
 この本では、日常にひそむ「待つ」がもつ苦しみを整理し、そして現代人がそれを回避しようとしてきた結果(携帯FAXetc…)待つことに耐性がなくなってしまった経緯を明らかにしようとしている。


■面白かったのは、企業の活動や業務にかかわる英語にほとんどproという接頭辞がついているということ。Project, profit, production, progress, promotion, program…こうした商業の前のめり姿勢(proが前に、を示すから)は、待つではない、という。現在という場所から想定された未来でしかなく、それは全くの外部のものではない。こういうものは「待つ」ではなく、すでに「待つ」を拒んでいる形なのだと著者はいう。
 すなわち、「待つ」とはまったくの想定外の外部の偶然というものに依存していなくてはならないが、それはまったくの受動でもなく、意識して、そうした外部に開かれてなくてはならない。そういう意味で放棄や放置とは意味のちがう努力が必要になってくるのである。

■「聴く」ということも、「待つ」ことに含まれていると著者はいう。相手から紡ぎだされる言葉を待つ。相手が言葉にするために、自分に距離を置きながら、自分をつむぎだしていくのを「待つ」。ここで、前のめりになって「それってこういうこと?」と言葉を引き出そうとするのは、「聴く」の最悪の形であると著者は述べる。心理カウンセラーの例をだして。
 相手は伝わらないかもしれないという思いで、言葉を口にしない可能性もある、それでも希望も期待もなく、言葉がいつか紡ぎだされるのを、従属的に待つしかない。その苦悩がうまく表現されているのではないだろうか。

■「『よろしくない』加減がまだぬるい」という表現は秀逸だ。どうにもならない行動を起こさなければどうしようもないという状態にいたってない状態の場合(まぁ目をつぶれる程度)、そこにも「待つ」ことが要求される。痴呆症状がではじめた老人たちに対するケアを例に出して、未来という不在の外部へとむけられた「待つ」とは少し異質な、時間感覚の存在しない「待つ」が語られる。
 そして放棄とはことなるが、期待のような圧力もない「待つ」の持つやさしさを描き出していると思う。それは努力が必要な分、相手への愛そのものでもある。

■「祈り」と「待つ」ことは似ているという表現も面白かった、しかしそれは、神様への要求なのではない。後者は、祈りの答えのかたちを要求しているのに対して、前者の「待つ」と同義の祈りは、祈るひと自身が、答えを知らないでいることが重要なのである。


鷲田清一氏は友人が大絶賛する一人であるが、
今回の著作は大変面白かった。うちとか外という表現が現象学チックというか、うちの大学の現象学の教授のいうことに似ていた。
おかげで、教授の話がよく理解できたのでお世話になった作品でもある。
ロリータ

ロリータ  “LOLITA”

ウラジミール・ナボコフ
Vladimir Nabokov
邦訳・若島 正

新潮社 2006-10
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ロリータ、わが生命(いのち)のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロー、リー、タ。
舌の先が口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。
------(大久保康雄・訳。新潮文庫、14頁)
上のamazonでは表紙がかわいらしいので、新訳版を紹介しているが、私が読んだのは旧訳版のほうで、訳は大久保康雄というかたが担当している。

ロリータという名はあまりにも有名で、
その元になった小説の存在は知っていたが読む気はなかった。

しかし興味本位で手にしたこの本の、冒頭のこの数行が、
私のなかで爆発して、結局、私はこの本を購入することになっていた。



私はあの時、一つの変態性が、ここまで美しい文章に昇華されていることに感動したのだ。

この文章のなかに、私はたぶん、自分のなかの芸術性と変態性が強烈に共鳴しあうのを感じたのだと思う。

変態は、ある意味で、愛が強すぎるのだ。
そして愛を、他人と共有せずに、純粋に自分のなかだけで純化してしまう(ことができる)。

この文章から伝わるだろうか。
彼は、主人公ハンバートは、ロリータという名を口にするとき、舌がどのように動くのかを知っている。
それは実際、実物のロリータを何度も呼んだから、覚えているのではない。
一人のときに、ロリータの名さえもしゃぶりつくすために、
そっとひとりで、一つ一つの音節を味わい尽くして何度も何度も呟いたからにほかならない。

この孤独さ、この盲愛さ、そして偏執性。
決して共有を最終目的としない、自分一人だけのための快楽。
愛の対象となっている少女が、何を考えているのかは、本当はどうでもいいのだ。
ただ彼女が自分のそばにいればいい。
彼女が自分を愛してくれないから、男は悲しむのではない。
彼女を、《彼の理想の少女》を愛でられないから男は悲しいのだ。


一見、《愛》でありながら、そこには共有はない。
彼はただ自分で味わうために奪うだけだ。
金銭的に、物理的には与えつづけ、少女を甘やかし続けるが、
それはもらうために、与え続けているだけで、
無償の愛などでは決してない。

彼はロリータを愛してなどいない。
それでも、彼は、自分の偏愛のために、奔走する。
つい勘違いしそうになるが、彼が満足させたいのは、どこまでも自分の欲求でしかない。

その自分に正直なさまは、みていて愛らしいほどだ。
いっそすがすがしいほどだ。


オウエンのために祈りを〈下〉 (新潮文庫)オウエンのために祈りを(上)(下)


John Irving
訳・中野 圭二


新潮社 2006-09
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「政治的」であるとは、自らチーズバーガーにとりつかれることなのだ
   ──しかも残りの人生全てを棒に振って。
(本書下巻187頁)

  「怖れるな。きみには悪いことは起こりっこない」
(本書下巻410頁)


ジョン・アーヴィング作品はこれで三作目。
随分たくさん読んだ気がするのは分量のせいだろう。
物語がすべての伏線をかき集めて、急速に収束していくさまは爽快ですらあった。
しかし救われなさ過ぎる。
それぐらい、オウエン・ミーニーという人物に心惹かれていたのか。

信仰ということについてとても考えさせられた。
信じる、というのは、頭に浮かぶことを丸ごと信じ込む、というのとは少し違うようだ。では信じる、というのはどういうことだったのだろう。
オウエン・ミーニーの発行する新聞が読みたい。
彼と親友であり、彼の愛を一心に受けた主人公は本当にうらやましいと思う。


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性別:
非公開
職業:
夢想散歩
趣味:
珈琲豆を挽く事。
自己紹介:
駅までの路上で、
白昼夢に気づく。
珈琲を飲みながら、
現実から目覚める。
夢を見ながら
夢の外側を直視する。

虚実混在する日常生活をつづっています。もしかしたら世界のどこかで普通に営まれている日常生活が白昼夢のように混じります。
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