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日々あったことの生活記録。ただし虚実混在。


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はじめてジャスミンティーを飲んだのは、ベトナムのホー・チ・ミンだった。

コンニチワと高い声を出す、くたびれた車引きのおじさんたちが、
アルミ製のくたびれたテーブルを囲んで、
黄金色の液体をひたひたと湛えた、べこべこに歪んだアルミ製のカップを
心地よさそうに啜っていたのだった。
おじさんたちの土色に焼けた肌と、その飲み物はとても美しく調和していた。

叔父が颯爽と人力車から降り立って、

「あれがジャスミンティーだよ。飲んでみよう」

と私を誘った。
私の父の兄である叔父と、たった二人で投げ出されたベトナムの地で、
私は叔父の颯爽とした姿に、父親にない身軽さを感じ、
そして私を振り向くことなく、テーブルにつくシャンと伸びた背中を見ながら、
鈍くさい父を愛おしく思いだしていた。

その頃、父に溺愛され、ころころと贅沢に太っていた私は、
父のように鈍くさくよろよろと揺れる不安定な人力車を降りた。

ベトナムの湿った甘い空気が鼻をつく。
おずおずとテーブルにつくと、ジャスミンティーが目の前に置かれた。
金色の液体からは、ベトナムの風と同じようにどこか甘くただれた、花の死骸のような香りの湯気が立ち上っている。

その湯気の香りは、どこかひたむきな愛情の悲壮さがあった。


愛しているよ


弱さも悲しみも抱えたまま、罪を許そうとする恋人の、どこまでも優しい抱擁が、身体中を包み込むような感じがした。
人が金木犀や百合の香りに酔いしれるとき、そんなことを直観するのではないだろうか。

私は異国の地で、そんな風にジャスミンティーと出会った。
そして香りだけを覚えていた。
味はとても苦かった。そしてそれを打ち消そうとするように、砂糖が大量に入っていて、私はさんざんに噎せ、目の前のおじいさんが、そんな私をみて、白い口髭の下から黄色い歯をむき出しにして笑っていた。
失礼じゃないか、と叔父は私を嗜め、ごくごくとその液体を嚥下したあと、
これがこの国の飲みものなんだよ、と言った。


日本に帰ってから、私はジャスミンティーにたびたび癒しを求めるようになった。
あの黄金色の愛の匂いが忘れられなかったのだ。
そしてそれは毎回裏切られることはなかった。
香りが甘いのに比して、砂糖を入れないジャスミンティーは、苦みだけを口の中に残していく。
私は別れた恋人の残り香を探すように、ジャスミンティーを少しずつ口に含んだ。


そして今日、私はたぶん疲れていて、
コンビニで目にしたジャスミンティーのペットボトルに、すがるように手を伸ばした。
手を伸ばしながら、自分が疲れているのだと悟ったほどだった。

そして机に座って、一口それを口に含んだ時、
変貌した恋人の姿に唖然とするように、口に広がる苦みに呆然とした。

ジャスミンの香りが広がるより先に、茶葉の苦みが私を拒絶した。
その苦みを通りすぎてから、ふわっと花の香りが広がった。
しかし、私はあの溢れそうになるほどの愛情を感じられなかった。
量産されたペットボトルの限界だったのか。
私が疲れ過ぎていたからなのか。

ジャスミンティーが喉を通り過ぎる時、
私はベトナムの通りにたった一人で立っているような気がした。

日本から何万キロも離れた地で、
父の面影を残しながら、私と家族的感情を共有しない凛とした叔父の姿を、
噎せるような甘く爛れた匂いのする湿った風が、黄色い埃を舞い上げるベトナムの路上で、探している私。
空間の隙間を埋め尽くすように掲げられた、赤茶けた看板の乱立する市場の中を、
疎ましい父の不器用な愛情を懐かしく思い出しながら、
薄い血縁のたった一人の親族の姿をすがるように目で追う私がいた。


ペッチボトルから口を離すと、
ボトルの中でジャスミンティーの琥珀色の液体が、ちゃぽんと音をたてた。
その響は、眉をしかめた恋人が、困ったように笑って私を抱き寄せるときの、
仕方ないなぁという呟きに似ている。


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マンチェスターに住む友人から手紙が届いた夢を見た。

てっきり彼はアメリカに行ったとばかり思っていたので、
Manchesterはアメリカのどこにあったんだろうとふと悩んだ。
Manchesterという響きには、どこか郊外を思わせる。
馬車がゆっくりギャロップしながら、人を運んで行くようなイメージだ。
しかし、中に乗っている男は英国紳士風で、
黒いレースに顔を包んだ向かいの女性は、憂鬱そうに顔を下向けている。

窓から入る風の中に、金色の麦の匂いが混じっている。
薄曇りの空の下に、森の深緑に縁取られた黄金の麦畑が広がっている。
それなのに車内には、青ざめた無言が、一定のリズムでゆられ続けている。
紳士は漆黒のシルクハットの下から、
灰色の目を歪ませて女性を盗み見ている。
女性は手元の白いハンカチを握りしめている。
そのハンカチはおそらくしっとりと湿っている。
涙の枯れ果てた目元を、金色の睫毛が覆っている。
口元は血の気を失くして、どこまでも頑なに引き結ばれているのだ。

褐色の土の上を、馬が軽やかに通り過ぎていく。
乾いた風が黄金の畑をしなやかに歌わせる中を、青みがかった灰色の憂いをどこまでも軽やかに運ぶ。

Manchesterとはそういうイメージだ。
しかし、そういうイメージはほとんど英国のものではないのか。
そう思ったところで、Manchesterはイギリスじゃねーか、と気づいた。


今度の夏に遊びに行こう。



健康診断を受けてきたら、また体重が減っていた。

ダイエットが必要である。
本来の意味での食事制限、すなわち食事を理性のコントロール下に支配する、ということだ。

しかし、巷には≪食事制限≫は、減らすということであるらしい。
理性の歯止めが利かなくなると、人間は食べ過ぎてしまうのだ。
7つの大罪にあるように、人間の《食欲Gluttony》は神の手を離れてすべてをむさぼりつくす……という感じか。

となると、食べない、という選択肢はあたかも理性のコントロール下にあるように見える。
ある種、人間としての本能から遠ざかり、神から祝福されるべき事態である。


しかし「食べないから痩せる」という選択は、もう一方の大罪である《怠惰sloth》の象徴である可能性もある。

私だ。

めんどうくさい、もしくは時間が足りないので、食べない。
もしくは食材がないので食べない。
お金がないので食べない。

この痩せた体は、大罪から解放された人間に与えられる神からの賜物ではなく、
餓鬼とか、そういう幽鬼的な存在に近いように思われる。
食欲っていう本能が抜け落ちて、活力も抜け落ちていくわけだから。
しかし、まあ、私は現実世界の人間臭い餓鬼として、
夕方鼻歌を歌いながら、商店街やコンビニまでの道のりを闊歩するわけだが。


そういうわけで、もっと痩せた人向けのダイエット(食餌療法)があってもいい。

しかし、もともと怠惰の罪で肉を削がれた人たちは、
そういうダイエットという前向きかつ面倒くさい方法に飛びつく気力(もしくはお金)もないのではないか。

食餌療法ノウハウは、食欲のままに食事をむさぼることができる財力と活力ある人たちのためだけに、巷にあふれかえることになるのもムベナルカナ。


母から「とにかく栄養を取るのが先だ」とのお達し。
バナナと牛乳と、納豆を購入した。

どうでもいいけれど、バナナには幸せ物質が含まれているんだそうな。
「待つ」ということ (角川選書)「待つ」ということ (角川選書)
鷲田 清一

角川学芸出版 2006-09
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「待つ」という行為の本質をさぐろうとした著作である。
 待つというのは、意外にもかなり複雑で、どろどろしている。
 この本では、日常にひそむ「待つ」がもつ苦しみを整理し、そして現代人がそれを回避しようとしてきた結果(携帯FAXetc…)待つことに耐性がなくなってしまった経緯を明らかにしようとしている。


■面白かったのは、企業の活動や業務にかかわる英語にほとんどproという接頭辞がついているということ。Project, profit, production, progress, promotion, program…こうした商業の前のめり姿勢(proが前に、を示すから)は、待つではない、という。現在という場所から想定された未来でしかなく、それは全くの外部のものではない。こういうものは「待つ」ではなく、すでに「待つ」を拒んでいる形なのだと著者はいう。
 すなわち、「待つ」とはまったくの想定外の外部の偶然というものに依存していなくてはならないが、それはまったくの受動でもなく、意識して、そうした外部に開かれてなくてはならない。そういう意味で放棄や放置とは意味のちがう努力が必要になってくるのである。

■「聴く」ということも、「待つ」ことに含まれていると著者はいう。相手から紡ぎだされる言葉を待つ。相手が言葉にするために、自分に距離を置きながら、自分をつむぎだしていくのを「待つ」。ここで、前のめりになって「それってこういうこと?」と言葉を引き出そうとするのは、「聴く」の最悪の形であると著者は述べる。心理カウンセラーの例をだして。
 相手は伝わらないかもしれないという思いで、言葉を口にしない可能性もある、それでも希望も期待もなく、言葉がいつか紡ぎだされるのを、従属的に待つしかない。その苦悩がうまく表現されているのではないだろうか。

■「『よろしくない』加減がまだぬるい」という表現は秀逸だ。どうにもならない行動を起こさなければどうしようもないという状態にいたってない状態の場合(まぁ目をつぶれる程度)、そこにも「待つ」ことが要求される。痴呆症状がではじめた老人たちに対するケアを例に出して、未来という不在の外部へとむけられた「待つ」とは少し異質な、時間感覚の存在しない「待つ」が語られる。
 そして放棄とはことなるが、期待のような圧力もない「待つ」の持つやさしさを描き出していると思う。それは努力が必要な分、相手への愛そのものでもある。

■「祈り」と「待つ」ことは似ているという表現も面白かった、しかしそれは、神様への要求なのではない。後者は、祈りの答えのかたちを要求しているのに対して、前者の「待つ」と同義の祈りは、祈るひと自身が、答えを知らないでいることが重要なのである。


鷲田清一氏は友人が大絶賛する一人であるが、
今回の著作は大変面白かった。うちとか外という表現が現象学チックというか、うちの大学の現象学の教授のいうことに似ていた。
おかげで、教授の話がよく理解できたのでお世話になった作品でもある。
ロリータ

ロリータ  “LOLITA”

ウラジミール・ナボコフ
Vladimir Nabokov
邦訳・若島 正

新潮社 2006-10
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ロリータ、わが生命(いのち)のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロー、リー、タ。
舌の先が口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。
------(大久保康雄・訳。新潮文庫、14頁)
上のamazonでは表紙がかわいらしいので、新訳版を紹介しているが、私が読んだのは旧訳版のほうで、訳は大久保康雄というかたが担当している。

ロリータという名はあまりにも有名で、
その元になった小説の存在は知っていたが読む気はなかった。

しかし興味本位で手にしたこの本の、冒頭のこの数行が、
私のなかで爆発して、結局、私はこの本を購入することになっていた。



私はあの時、一つの変態性が、ここまで美しい文章に昇華されていることに感動したのだ。

この文章のなかに、私はたぶん、自分のなかの芸術性と変態性が強烈に共鳴しあうのを感じたのだと思う。

変態は、ある意味で、愛が強すぎるのだ。
そして愛を、他人と共有せずに、純粋に自分のなかだけで純化してしまう(ことができる)。

この文章から伝わるだろうか。
彼は、主人公ハンバートは、ロリータという名を口にするとき、舌がどのように動くのかを知っている。
それは実際、実物のロリータを何度も呼んだから、覚えているのではない。
一人のときに、ロリータの名さえもしゃぶりつくすために、
そっとひとりで、一つ一つの音節を味わい尽くして何度も何度も呟いたからにほかならない。

この孤独さ、この盲愛さ、そして偏執性。
決して共有を最終目的としない、自分一人だけのための快楽。
愛の対象となっている少女が、何を考えているのかは、本当はどうでもいいのだ。
ただ彼女が自分のそばにいればいい。
彼女が自分を愛してくれないから、男は悲しむのではない。
彼女を、《彼の理想の少女》を愛でられないから男は悲しいのだ。


一見、《愛》でありながら、そこには共有はない。
彼はただ自分で味わうために奪うだけだ。
金銭的に、物理的には与えつづけ、少女を甘やかし続けるが、
それはもらうために、与え続けているだけで、
無償の愛などでは決してない。

彼はロリータを愛してなどいない。
それでも、彼は、自分の偏愛のために、奔走する。
つい勘違いしそうになるが、彼が満足させたいのは、どこまでも自分の欲求でしかない。

その自分に正直なさまは、みていて愛らしいほどだ。
いっそすがすがしいほどだ。


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doris304
性別:
非公開
職業:
夢想散歩
趣味:
珈琲豆を挽く事。
自己紹介:
駅までの路上で、
白昼夢に気づく。
珈琲を飲みながら、
現実から目覚める。
夢を見ながら
夢の外側を直視する。

虚実混在する日常生活をつづっています。もしかしたら世界のどこかで普通に営まれている日常生活が白昼夢のように混じります。
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